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人物

渋沢栄一の生い立ちは?新紙幣の顔になる理由も!出身地や魅力は?

渋沢栄一の生い立ちは?新紙幣の顔になる理由も!出身地や魅力は?1

9日に発表された新しい1万円札の肖像画に

実業家出身の渋沢栄一が採用されました。

 

いったい渋沢栄一とはどんな人物で、

出身はどこでどんな生涯を送った人なのか。

 

なぜ紙幣の顔になるのか、

少し調べてみましょう。

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渋沢栄一の経歴を簡単にまとめると?

まず渋沢を語る上でかかせないのが

栄一は一民間経済人としての顔です。

そのスタートは「第一国立銀行」の総監役(後に頭取)でした。

 

渋沢は第一国立銀行を拠点にして、

株式会社組織による企業の創設 ・育成に力を入れました。

 

そして「道徳経済合一説」を説き、

1931(昭和6)年11月11日に91歳で亡くなるまで金融だけでも

第一国立銀行

第一銀行

第二十国立銀行

二十銀行

日本勧業銀行

日本興業銀行など

事業を横断して製紙業、紡績業、運輸業など

約500もの企業に関わっています。

 

では民間経済人として活躍するまで

いったいどんな経歴だったのかを

見ていきましょう。

渋沢栄一の生い立ちは?

まず生まれたのは1840(天保11)年

2月13日、江戸時代です。

現代にも名を残す人ですが、

渋沢栄一は江戸時代生まれの方のようです。

 

出身は現在の

埼玉県深谷市血洗島で実家は農家です。

 

幼い頃から家業である

藍玉の製造・販売・養蚕を手伝い

農家ではありましたが、

 

栄一の父が教育に熱心な人物で、

幼いころから学問の手ほどきをうけ、

いとこの尾高惇忠から「論語」などのを習うようになります。

 

そして時は幕末、尊王攘夷思想の

影響を受けた栄一は惇忠や

惇忠の弟の長七郎、いとこの渋沢喜作らと

とも高崎城乗っ取りの計画を立てたといいいます。

 

ですがこの計画は長七郎の京都での見聞から

反対され中止される事になり栄一は京都に向かいました。

 

その後、一橋慶喜に仕える事になった栄一は

一橋家の家政の改善などに実力を発揮し

手腕を認められます。

 

27歳の時慶喜の実弟の徳川昭武

随行しパリの万国博覧会を視察したり

欧州諸国の状況を実際に目にして

先進諸国の社会事情を肌で感じる事になります。

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渋沢栄一の帰国後の尽力と80代の働きとは?

渋沢栄一の生い立ちは?新紙幣の顔になる理由も!出身地や魅力は?

明治維新となって帰国すると

視察の体験を踏まえ日本で最初の

合本(株式)組織「商法会所」を静岡に設立します。

 

その後明治政府の大蔵省の一員として

新しい国づくりに尽力します。

 

その後大蔵省の職を辞し

民間経済人としてキャリアを進めていく事になりました。

 

渋沢栄一の哲学は

私利を追わず公益を図る

というもので、生涯500余りの企業に

関わったにもかかわらず彼は財閥を作りませんでした。

 

この経営者としての在り方は

経営の本質は責任に他ならない」という

現代にも通じる哲学を示すものです。

 

この在りようがいまでも彼の経営者としての

人気を支えていると言えるでしょう。

 

その責任感は関東大震災の時にも

発揮されました。

 

東京日本橋の事務所で

震災に遭った渋沢は当時83才

 

埼玉の実家に帰ることを

進める息子たちに渋沢は

 

こういう時には、

いささかなりとも働いてこそ、

生きている申し訳が立つようなものだ

 

といい震災復興に挑戦しました

 

それもただ復興するだけでなく

首都東京」をどのような都市として

復興させるかという新たな課題を設けて尽力したのです。

 

 

それは東京を江戸城を拠点とした軍都から、

日本を支える経済の中心としての

商業機能を重視した都市に作り変えるというものでした。

 

復興をこの計画を実行する機会ととらえ、

政府には入らない」という主義を曲げて

政府委員に入り復興に向かいましたした。

 

ただこの課題は復興予算の縮小と

伊藤巳代治などの反対で

実現はできませんでした。

 

しかし現在の東京はまさに

渋沢の思い描いた商業都市となっています。

 

以上見てきたように、

渋沢栄一は現在の活躍する数多くの

日本企業に深くかかわり、

果ては東京という都市の有りようにも影響を及ぼす人物でした。

 

ここまで経済に関わる人物

紙幣の肖像になるのは

初めてかもしれませんが

 

改めて渋沢栄一という人物を学び直すと、

それに相応しい、いやそれ以上の功績を残した人物だなと思います。

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