「マンブルコアっていいよね」と言われて「ああ、あれ最高だよね」と切り返せる人はいったい日本にどれだけいるだろうか。
もしかすればマンドリコワ(往年の女子テニス選手)やマンドリル(ドラクエの敵キャラ)の方が知名度が高いのではないだろうか。
マンブルコアとは、アメリカの90年代に始まったインディーズ映画の1ジャンルである。
2002年に初作品が生まれ2015年頃まで同一ジャンルの映画が数多く作られたことで知られている。
今回はこのマンブルコアについて日本の映画作品との違い、またその世界観やムーブメントがどういうものだったのかを分かりやすく解説したい。
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マンブルコア作品と日本のオフビート映画との違い
マンブルコアとはそもそも「Mumble」と「Core」を足した造語。
「もごもごしゃべる」を意味するマンブルに「極めつけ」的な意味のあるコアがくっついたのだ。
この命名通り、マンブルコア映画の最たる特徴は俳優たちがリアルな日常会話そのままにトーンを抑えた話し方をする点にある。
つまり皮肉にも演じることが禁止された演技だといえる。
日本映画界にも90年代、主に素のままの演技スタイルを意味する「オフビート」が北野映画などを筆頭にして数多く見られたものだ。
北野武は俳優の演技に対してほぼNGを出さない監督として有名だ。
しかし俳優が演技をしようとしたときにだけカットをかけるそうだ。
ただ日本産オフビートとマンブルコアには大きな違いもある。
オフビートが口数が少なく表情のない演技をするのに対し、マンブルコア作の多くはキャラがよくしゃべるし自由奔放なアドリブも入れてくる。
ここは日米のリアルな国民性の違いでもある。
マンブルコアの主な特徴として他に、低予算・無名俳優・リアルなロケ地・サントラはほぼなし・リアルな性描写などが挙げられる。
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マンブルコアの作品の核心には世の中に静かな不満を抱く若者あり
マンブルコア映画の内容としての最たる特徴はストーリーよりも圧倒的にキャラクターに重点を置いているところにあるだろう。
魅力的なキャラさえ生み出せば後は勝手に話が回ってゆくというような進め方だ。
そのキャラの一般的な特徴は大学卒業後に将来を見失った20~30代の若者だ。
彼らの多くは世の中に不満を抱いており気ままな独身生活を送っている。
公私共に無気力・無目的であり過酷な現実や真の自分自身から逃げていることに悩んでいる。
日本的にいえばニート・サトリ世代的な人たちだといえるだろう。
日本映画でもこういう若者を取り上げたインディーズ系映画は今も脈々と作られ続けている。
マンブルコアの代表作は
『ハンナだけど、生きていく!(2007)』
『フランシス・ハ(2012)』
『ドリンキング・バディーズ 飲み友以上、恋人未満の甘い方程式(2013) 』
などがある。
これらは上記の特徴から外れる面もありながら、世の中の流れから大きくそれてでも自分と向き合って個性的に生きてゆくという点で一致しているといえるだろう。
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マンブルコア作品はパーソナルな作家性が招くリアリズム
2000年代に入りなぜマンブルコア・ムーブメントは生まれたのだろう。
そもそも映画をリアルに近づける必要などあるのだろうか。
何も起こらない現実に飽き飽きして観るのが映画なのではないか。
しかし映画が歴史を重ねるごとにリアルに近づいてゆくのは自然なことだといえる。
漫画やアニメとは違い映画や小説とは基本、作家性・個性が強烈な表現者が手がけるものだ。
彼らは極めて自由な考え方や行動力を持っているので必然的に現実の壁とぶつかる。
マンブルコアの代表作『フランシス・ハ』ではヒロインは結婚適齢期を過ぎてもなお自らの夢を追う。
『ハンナだけど、生きていく!』では魅力にあふれたヒロインが華やかな人生を歩みながら、自らのパーソナルな欠落に気づき思い悩んでゆく。
このように作家の個性が強すぎると自然と現実との葛藤が生まれ、作品がリアルになってゆく。
マンブルコアの登場もまたその延長線上にある。
登場人物たちの多くがマンブルする(もごもご話す)のは、それだけ声を大にして言えないことばかり口にしたり考えたりしているということだ。
マンブルコアに限らず独創的な表現とは、自然と現実的あるいは政治的になってゆくものだ。
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マンブルコアはミレニアル世代の憂うつ
もう1つ、リアリズムに徹したマンブルコア・ムーブメントが起きた要因は、ミレニアル世代の特殊性にあるといえる。
主に2000年代に20代になったアメリカの若者世代、彼らは一貫してタフな現実と政治に直面せざるを得ない時代に青春期を送っている。
2000年はニューヨークの9.11テロと共に始まり、国際テロ・貧富の格差・環境破壊が20年に渡って続けられている。
それ以前の若者は政治なんて関係ないねとクールに構え、気ままな生き方や表現方法の中で楽しむことができた。
だがミレニアル世代は若いうちから過酷な現実に向き合わざるを得なくなったのだ。
マンブルコアは、リアリズムを宿命的に背負わされたミレニアル世代の憂うつから生まれたともいえるだろう。
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マンブルコアの歴史的な命運を握ったグレタ・ガーウィグ
マンブルコア・ムーブメントは日本ではもちろんアメリカや世界レベルの視点で見ても大きな広がりにはならなかった。
それはなぜなのか。
一般的にインディーズ映画のサブジャンルだと定義されているよう、その根本的な性質がインディーズと変わらないという理由もあるだろう。
だが何より世界的なヒットとなる代表作が生まれなかったことが最たる理由ではないか。
アメリカの大きな映画ムーブメントには必ず誰もが知る代表作がある。
アメリカン・ニューシネマなら『イージー・ライダー』や『タクシードライバー』。
80年代エンタメ時代には『E.T.』や『スター・ウォーズ』。
90年代インディーズは『パルプ・フィクション』や『メメント』。
昨今のコミック原作ムービーには『バットマン』や『アベンジャーズ』のシリーズものがある。
だが、マンブルコアの約10年の歴史にはそういう大ヒット作が誕生しなかった。
ではマンブルコアは歴史の闇に葬られてしまったのか。
いや実際、そうはならなかったといえる。
最大の根拠はかつてマンブルコア・ムーブメントの最前線に立っていた女優・グレタ・ガーウィグの昨今の大活躍ぶりにある。
彼女は先の『ハンナだけど、生きていく!』や『フランシス・ハ』の主演女優でもある。
ガーウィグは監督・脚本家としての才能を開花させ、
2017年『レディ・バード』
2019年『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』がアカデミー賞や全米批評家協会賞などで評価された。
その活躍ぶりはタランティーノやソフィア・コッポラが注目され始めたときと状況がよく似ている。
ガーウィグが今後『パルプ・フィクション』級のインディーズ魂あふれる大ヒット作を創れば状況は一気に変わる。
今後のマンブルコア・ムーブメントの歴史的な評価は、まさに今後の彼女の活躍次第だといえるだろう。
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