天気の子が口コミで酷評の理由は?あらすじやネタバレを劇場のパンフレットで考察!
2019年夏休み最大の目玉作品として上映された新海誠監督の映画『天気の子』が、公開後まもなく批判にさらされている。

一般の鑑賞者からプロの批評家まで、その多くが「観にゆくようにお勧めしたい映画ではない」といった意見で一致している。

 

私も劇場に行った1人だが、それに賛同する。

天気の子』のエンドロールが流れたとき、おそらくほとんどの鑑賞者は「え、これで終わりなの」と思ったのではないか。

110分と決して短くない長編アニメになぜそんな思いがあふれたのか。

 

歴史的なヒットとなった『君の名は。』に次ぐ新海監督の最新作は、一体何がまずかったのだろうか。

 

私はその最たる原因がラノベ的なボーイ・ミーツ・ガールにあると見ている。

これで終わりなの」という感情は映画の持つ閉塞感から来るものであり、その核心に少年と少女の出会いがあるのだ。

 

映画の劇場パンフレットにある監督の多くの言葉をひもときながら、それについて解説したい。

また、完全ネタバレになるので、鑑賞前の人はおそらく読まない方がいいだろう。

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『君の名は。』の批判者をもっと怒らせようとした『天気の子』

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新海誠は『天気の子』で監督と脚本に加え原案も担っている。

彼はライトノベル・いわゆるラノベ作家としても活躍している。

私は本作を観終えて何よりそのラノベ作家の限界を感じ取った。

 

その核心にはボーイ・ミーツ・ガールがある。

以下、このキーワードをBMGと略称したい。

 

パンフレットの中、新海監督はこの映画を理解する上でポイントとなる興味深い発言を数多くしている。

彼はその中で、前作『君の名は。』が一部で「許しがたい作品だ」と批判されたことについて触れている。

 

そこで彼は、そういった人たちをもっと怒らせることが自分の本望だと思い『天気の子』を作ったのだという。

 

新海監督に向けられた怒りの元には、まちがいなくボーイ・ミーツ・ガール:BMGがある。

新海監督は『君の名は。』の後、多くのインタビューで次は大人向きの映画を作りたいと語っていた。

 

普通に受け取れば、彼がBMGから脱却したいと思っているのだと読むだろう。

 

だが、実際はその逆だった。

 

天気の子』は気候変動という地球規模の大問題をメインテーマにしていることで一見、現実と深くコミットしているように感じられる。

BMGに現実の最たる問題をぶつけて、これまでのラノベ作風から自由になろうとする意思も感じられる。

 

だが、結果的にそれがBMGの要素を強めるという皮肉なことになっているのだ。

それが映画鑑賞後に感じた「え、もう終わりなの」の原因にもなっている。

気候変動よりも大切なボーイ・ミーツ・ガール

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BMG:ボーイ・ミーツ・ガールとはそもそも何なんだろう。

パンフレットの中、新海監督はBMGについて、自分にとってそれはラブストーリーではないと語っている。

 

若い人たちが初めて他者を知りたいと思う気持ち、「誰かを強く希求する気持ち」がベースになっているという。

 

確かに『天気の子』の帆高はその気持ちに突き動かされている。

ヒロイン・陽菜とまともにつき合ってもいないのに、映画の終盤で彼女が消えてしまうと必死になって、警察を敵に回してまで、その後を追う。

 

そのBMGには、多分に欲望もからむ恋愛よりも深いものがある。

いわば神秘化されたロマンス、プラトニックな情熱というものである。

 

新海監督は、この意味でのBMGをおそらく作家として最も大切なテーマにしている。

 

天気の子』で最大のポイントとなるセリフは帆高が叫ぶ「天気なんて狂ったままでいいんだ!」という言葉である。

新海監督も、この映画の起点がここにあったと語っている。

 

この大胆なセリフはそのまま気候変動という現実問題への無関心を示している。

帆高にとっては地球レベルの問題よりも陽菜にもう一度会うことの方が大切なのだ。

 

実際、映画の最終盤で2人は再会する。

根本的に見れば、そこでBMGが現実に打ち勝ったのだ。

 

そこで新海監督が環境問題を取り扱ったのは、BMGという自身の最大のテーマを祭り上げるためだったのだということが分かる。

そこにこの映画の閉塞感の正体がある。

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混沌の時代の新たな希望になりえなかったボーイ・ミーツ・ガール

天気なんて狂ったままでいいんだ」という若者の気持ちは私もよく分かる。

パンフの中、新海監督は、環境問題が大人世代の無責任な選択によって生み出されたものだとも語っている。

そこには大人が悪で子どもたちが善というBMGなラノベ作家特有の先入観がある。

 

環境問題とは世代や年代を超えた大問題である。

 

今の若い子たちだって50年前に生まれていれば、環境破壊につながる数々の選択をしてきたはずだからだ。

悪いのはそういう構造を生み出した一握りの政治家や富裕層なのだ。

 

新海監督は、帆高が先のセリフを叫ぶことで「狂った世界を選び取った」のだと語る。

そして調和や融和が戻らない世界で、何か新しいものを生み出す物語を描きたかったともいう。

 

だが、映画の最終盤、帆高と陽菜の再会のシーンに新たな希望は感じられない。

そこにあるのは空虚なBMGへの回帰だけだった。

ボーイ・ミーツ・ガールが後押しする絶望的な現実

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新海監督は、BMG:ボーイ・ミーツ・ガールを神秘化していて、そこにこそ彼の限界がある。

なぜなら、実は少年少女の美しきBMGの世界こそが絶望的な大人の世界を後押ししているからだ。

 

若者がBMGの耽美的な世界に引きこもり、恋人との幸せな時に浸っていればいるほど、この世はひどい場所になってゆく。

BMGの裏側では、政治家たちがその隙をつくようにひどい世界を造り続けているからだ。

 

BMGの若者たちや、それにあこがれる若者たちは政治的に無知で現実問題にコミットしない

政治家にとってそれほど将来有望な若者はいない。

今世界が環境問題を始めとした絶望的な状況にあるのは、実はそういうBMGな若者たちが世代を超えて受け継がれているからだといえる。

 

私はBMGの価値観を否定しない。

だが『天気の子』ではそこに浸るだけの若者が未来の希望のように描かれているのは、とんだ時代錯誤の価値観だ。

 

例えば今、香港の若者たちは中国の横暴から自由になるために日々戦っている。

甘いBMGに浸りながら政治活動している人もいるだろう。

彼らの方が帆高や陽菜よりもよっぽど新しい若者である。

 

天気の子』のラスト、長雨によって東京は水没する。

そんな街の中、帆高と陽菜が手をつないでデモに参加したり投票所に行ったりした方がよっぽど今の若者たちを描く作品になっていたのではないだろうか。

 

映像美たっぷりのミュージックビデオ的な映画に浸りたいという人は、劇場に行っても決して損はしないだろう。

私もその点において、本当に満足できた。

だが、その気持ちよさもストーリーの後味の悪さに勝ることはなかった。

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